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a day in the life 庵里直見 フォーナイン 99.99tt |
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トリノオリンピックでの荒川静香選手の戦略
バンクーバー・オリンピック。 男子スピードスケート500mで長島選手が銀メダル、加藤選手が銅メダルを獲得し、男子フィギュアでも高橋選手が大怪我を乗り越え、男子フィギュア史上初の銅メダルを獲得しました。人には言えない苦労があったことでしょう。おめでとうございます。
前回のトリノオリンピックでは金メダル一個に終わった日本ですが、今回は長野オリンピック並のメダルを目標にしているとか。この調子で盛り上がってほしいものです。
トリノで唯一の金メダルを獲得した荒川静香選手。あの時の演技は本当に素晴らしいものでした。観客の皆さんからの拍手が途中から鳴り止まなかったほど。会場中を、いや、何万キロも離れたテレビの前の私たちをも感動の渦に巻き込んでいたのです。 彼女は10歳で5種類の3回転ジャンプを飛び、天才少女と言われていました。当時のコーチがこうおっしゃっています。「普通の子の2倍から3倍のペースで課題を与えないと満足しなかった」。一緒に学んでいた本多選手も「先生の言うことを数回でやってしまう」と驚きのまなざしで見ていたそうです。15歳で全日本選手権を優勝し、翌年の長野オリンピックへの出場が決まりました。それまでとは環境が変わってしまい、多くのコーチからアドバイスを受けるようになります。「ルッツの入りはもっとストレートにしたほうがいい」「もっとカーブで来たほうが・・・」などなど、全く違う指示を受けることもあり、どれを信じていいのかの選択もできなくなってしまった。そのため彼女は混乱するのです。 混乱すれば、道に迷うのが当然。クルマのナビゲーションシステムがめちゃくちゃな指示を出せば、目的地には着けません。目標の大事さはイチロー選手も言っています。「目標を持ってもらいたい」と子供達に語り掛けたことは、私たちフォーナインの本でも紹介しています。 そんなことがあって、夢であったはずのオリンピックは、彼女にとって苦痛の場と変わっていきました。そして結果は13位。その時の経験から彼女は「オリンピックはすごく大変。それなら、別の場でもっと自分の感覚を大事にしたい」と思うようになり、オリンピックは目指さないと決めたのです。 自分らしいスケートができる場、それはアイスショーでした。そこでは各々が自分の世界を表現し、観客との不思議な一体感が生まれると彼女は言います。 「こんな世界があるのなら、競い合うだけのスケートではなく、自分らしく氷の上に立てるのではないか」「アイスショーの世界に進みたいな」。彼女はこう感じました。 しかし、そこは世界のトップに立った者だけが滑ることを許される舞台。そのためには世界選手権やオリンピックで金メダルを獲らなければなりません。彼女は2002年のオリンピックは目標とせず、22歳で迎える2004年の世界選手権にすべてを賭けました。 大会を一ヶ月後に控えた2月、ある巡り合いがありました。それはスケート連盟の助力で、タラソワさんのコーチを受けることになったのです。今浅田真央選手を教えている彼女はオリンピックで金メダルを狙える選手しか教えず、男子も逃げ出す厳しい練習で知られていました。タラソワコーチはこう言っていました。「オリンピックで金メダルを狙える素質はある。必要なのは練習。厳しくやる。だって、私はそのためにいるのだから」 実は、荒川選手は世界選手権で勝てなくてもアマチュアを引退するつもりでいたのです。しかし、それを言ってしまってはタラソワさんのコーチを受けられなくなる。彼女は決意を自分の胸にしまい込みました。 そして迎えた2004年の世界選手権。彼女は左足大腿骨を剥離骨折をしていたのです。しかし、痛みを忘れて夢中で滑りました。この時、どうしても使いたくて選んだのが「トゥーランドット」。氷のように心を閉ざした姫が、異国の皇子の愛によって心を開くという彼女が大好きな曲です。前半で3回転-3回転-2回転を決めて波に乗り終盤のイナバウアーで観客席が大きく盛り上がった瞬間、彼女は「ああ、これで終わってしまう。もっと滑っていたい」とフィギュアスケートをするようになって初めて感じたそうです。そして念願の金メダルを獲った彼女は「これでアイスショーに出られる」と思いました。「これで心置きなくアマチュアは引退できる」 長野オリンピックとは違い、彼女が自分の気持ちを大切にした結果、手にすることができた栄冠と言えるでしょう。 世界選手権で金メダルを獲った荒川静香選手。これで「アマチュアは引退できる。アイスショーへ進める」と思って日本に戻ると、トリノオリンピックへの期待で周囲は大きく盛り上り「オリンピックに出るつもりはない」「アイスショーに行きたい」とは、とても言い出せる雰囲気ではありませんでした。そのため彼女は目標が定まらないまま中途半端な気持ちでアマチュアとして滑り続けることとなります。「気持ちと進む方向が違うほうを向いていて、フワフワとしていて・・・。自分が気持ちと体のどっちにいるのか分からなくなってしまった。そんな状態がずっと続きました」 その頃のことを振り返った彼女のことばです。つまり目標が定まらない。アマチュアとアイスショーの間を行ったり来たりしていたのです。 はっきりとした目標がないまま迎えた次の世界選手権ではなんと9位。前回の世界チャンピオンとしては惨敗でした。しかも、採点方式が変り、ジャンプ、スピン、ステップ、スパイラルのそれぞれの技の完成度をビデオで確認するようになったのです。これまでの審判の主観が入る余地は狭められ、より客観的な評価となっていました。 彼女の特徴をあるコーチはこう表現します。 「彼女の優れたところは遊びの部分。名前の付いた技ではなく、氷の上で独自の表現がある。それが彼女らしいプログラムに生かせる」 しかし、そうした彼女らしい世界を表現するのではなく、技の正確性が求められるようになっていたのです。 では、なぜ採点システムが変わったのでしょうか。 それは、後々語り継がれることになるソルトレークシティ・オリンピックでの「疑惑の審判」があったからです。地元アメリカのサラ・ヒューズ選手はショートプログラムの4位からフリーの高得点で1位に躍り出ました。会場は大きな声援に包まれたのです。そしてロシアのスルツカヤ選手の滑走。彼女はそのシーズンのあらゆる大会で勝ち続けていて、金メダルの大本命でした。拍手も声援もない会場で、彼女は最高の演技をしました。しかし、審判の目も厳しく、彼女は2位に終わった。 これをきっかけに採点にビデオが取り入れられ、技の正確性が客観的に判定されるようになっていったのです。 芸術性、自分らしさを重視する荒川選手にとっては不利なシステムでした。しかし、このままでは次の人生の道が閉ざされてしまいます。「このままでは終わりたくない。このまま引退という選択はないな」「あと一年、気持ちと体が戻ってくるのを待って一体となったところで、どういう結果になっても満足するところまでやって終わりたい」。彼女はそう考えたのです ここから、彼女のトリノ・オリンピックへの戦略が進められるのです。 |
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