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a day in the life 庵里直見 フォーナイン 99.99tt |
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出来事に意味はない
カメルーン戦の終盤、日本チームはゴール前にくぎ付けにされていましたね。次々と相手の放つシュートが日本ゴールを襲い、観ているこちらはヒヤヒヤの連続。特にゴールポストに弾かれたシュートには「やられた!」と思った人も多いことでしょう。
何とか猛攻をしのいだ日本が勝利を収めた瞬間は、日本中が大興奮。 本当におめでとうございます!
翌日の報道では、「集中が途切れることなく、守り切った」「よくやった」という論調が多かったように思います。
その中でオシム氏が「ゴールエリアまで最終ラインが下がり、5メートルしか余裕がなかった。カメルーンが点を決められなかったのは、日本が幸運だったにすぎない」と言っていました。
私はサッカーのことはよく分かりませんが、感想はオシム氏と同じ「たまたま。ツキがあった」です。いつ点を入れられてもおかしくない状況が20分ほど続き、肝を冷やすようなシュートも何本もありました。あのゴールポストに弾かれたシュートが入っていたら「集中力を最後まで維持できなかった」と批判されたことでしょう。「一瞬の油断があった」と。
では、本当のところはどうなのでしょうか?
あの20分間のもつ正しい意味とは?
その答えとして「出来事に意味はない」という考え方をご紹介しましょう。
これは「出来事には本来的に備え持った意味などない」という考え方です。
あの終盤の20分間の日本チームのプレーが持つ意味は「途切れなかった集中力」なのか「ラッキー」なのか。それはどちらでもない。あの出来事自体に意味はないというのです。 それは観ている側が意味を与えているのだ、と。
だから二つのまったく異なる意見が出てくるのです。あの20分の出来事に本来的に備わった意味があれば、異なる意見など出てくるはずがない。
別の例をご紹介しましょう。
前日までこき下ろされていた岡田監督ですが、カメルーン戦の勝利によって、一気に名将としてもてはやされていました。私は報道の変わり身の早さに驚きましたが、岡田監督の能力があの夜変わったわけではありません。岡田監督は岡田監督なのです。でも「監督失格」から「名将」へと彼の存在意味ががらりと変わってしまう。
岡田監督という存在に対しても、観ている側が意味付けをしているだけに過ぎないのです。
ならば「出来事」などに意味がないということは、よく理解できるのではありませんか? 観ている側が意味を与えているのだ、と。
こんな例もあります。
私が受けた自動車運転の適性テストにこういう質問がありました。 「運転中にクラクションを鳴らしますか?」 私は運転中にクラクションを使います。決して「どけどけ!」とか「早く行け!」ではありません。例えば片側2車線の道路で私の斜め前を走っている車が私の車の存在に気づいていないのではないかと感じた時に、存在を知らせるするために軽くクラクションを鳴らすことがあるのです。 質問を作った人の意図は、「どけどけ!」とか「早く行け!」というクラクションを鳴らすかということだと想像されます。私の意図とは違いますが、クラクションは鳴らすので質問に対する答えは「ハイ」。つまり適性としては好ましくないことになりす。 これも出来事に対する意味付けの違いです。 これは心理学の限界を示す例でもありますが、出来事に対して意味をつけているのは判断する側だということの例でもあります。 私の心理学に対するスタンスは「自分の人生を豊かにしてくれるものなら利用すればよい」「自分を楽にしてくれるものなら使えばいい」というものです。心理学は決して絶対ではありません。 どういった 意味付けをするか、どの視点から観るのか。つまり出来事の評価には様々あるし、それを決めるのは自分自身。そして、身の回りで起こることに対して、あなたが下している判断は絶対ではない。別の意味を持たせることも可能なのです。 もう一度、会社や家庭での出来事を考え直してみる価値はありそうですよね。 案外、つまらないことにとらわれていた、なんてこともあるかも? |
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